第1章(立ち読み2/4)

 青年はギターを覆い隠すように、俯いたまま弦を弾いていた。長い前髪が顔を隠し、オーディエンスに表情は見えない。
 構え直すか特殊な奏法を加える時にスイングする以外、特別パフォーマンスをするわけでもなく、演奏中ほとんど動かない。
 起伏のないスタイルながら、彼の奏でる音は厚く、とてもギター一本とは思えないほど表情豊かだった。
 
 彼が毎夜演奏しているこの海道は廃港通りと呼ばれ、大戦中は軍港の一部だった。今は閉鎖されているが、身分を失うなどして社会からはぐれたものが潜む場所でもあった。
 かつての名残として沖合には今も軍艦が沈んでおり、水面には折れたマストが傾いていた。
 
 唸る風は歌となり、すべての音が曲になる。手拍子は自然と沸き起こるのだった。曲が終わると夕立のように拍手が響き、そこに硬貨のぶつかる音が混じる。
 オーディエンスの前には縄の取っ手をつけたペンキの空き缶があり、青年はそこに投げ銭が溜まっていくの見つめていた。お辞儀や笑顔は見せず、じっとしている。
 しかしそんな無愛想に誰ひとりとして文句を言わない。それはまだ、彼がギターを下ろさないからだった。
 
 密集する男どもの後ろで、もっと見える場所はないかと知恵子は爪先立ちをしていた。しかしバランスを崩して尻餅をついた。コツンと酒瓶が音を立てたので慌てて抱えるが、中身は既に空だった。
 人々の足の間から流れ星のように降り注ぐ投げ銭が見え、その向こうにギターのネックと俯いたままの青年がいた。前髪で隠れ、表情は窺えない。
 
 彼の全体像を見ようと知恵子は再びよろめきながら立ち上がった。彼女が人垣の後ろで彷徨っていることに、誰も気がつかない。
 人垣から離れたウッドデッキにも誰かいたが、新聞を広げていたため知恵子が見つかることはなかった。
 
 知恵子は防潮堤に沿って建つ倉庫へと辿り着き、その扉付近に積まれたコンテナの陰に身を隠す。そっと頭を出して広場の方を覗くと、ちょうど青年の全身が真横から見えた。
 やがて投げ銭の雨は収束し、代わって青年がそっとギターを構える。オーディエンスは拍手をやめ、知恵子も耳を澄ませた。
 厚い雲で覆われた空にくぐもった波の音が反響する。遠くのザザッという小さな波まで聞こえた。
 
 音という音が止んだ一瞬の間に、青年の指が弦を撫でる。流れるような旋律と濁りのない音。さっきとは打って変わり、静かで穏やかな調べだ。
 少し寂しげにも聞こえるその曲は、まるで祈りのように心を震わせた。気づけば風も穏やかになり、ギターの音とともに知恵子の体を通り抜けていく。
 言葉を超えた想いを感じ、知恵子はその心地良さに抗うことができないまま、彼の曲に身を委ねた。
 
 青年が波止場への階段を下りようとした時、カラン、と背後の倉庫で音がした。大きなコンテナが積んであるのはいつも通りだが、その奥に何かの気配がする。
 何か飛び出してくるのではと身構える。気づいてしまった以上、無視していくわけにもいかず、かといって自分から向かいたくもない。そこに何かいるのは間違いないが……。
 一向に動きがないため、彼は意を決してそろそろとコンテナに歩み寄りった。何か起きればすぐに仕留められるだろう位置まで距離を詰める。
 
「うーん……」
 
 彼がドキドキしながら相手の出方を待っていると、寝ぼけたような声がした。青年は慌ててコンテナの裏を覗き、はっと目を見開いた。そこには、廃港通りにいるはずのない、小奇麗な白いコートを着た少女が蹲っていた。
 
「おい」
 
 傍らに跪き声をかけてみても彼女は呻くだけだった。青年はコンテナ越しに手を伸ばし、彼女の肩を叩く。
 
「おい、しっかりしろ」
 
 再び呼びかけるも、やはり反応は鈍かった。心配になり、彼は恐る恐る彼女に近づいてみる。
 顔は化粧も透けるほど真っ白で、首に手を当てると爆発しそうなほど脈が強い。近くに酒の空き瓶が転がっていたのでようやく状況が掴めた。
 
 彼はギターをコンテナに立て掛けると羽織を脱ぎ、もう一度ギターを担ぎ直す。彼女が背負っている屋筒のようなものはそのまま、内側に手を通して背中を支えた。
 先ほど脱いだ羽織を掛けてやり、鞄に空き瓶をねじ込んで腕にかけると、彼女の足を掬い上げた。
 
「寒いっ」
 
 演奏場所の真向かいに一軒、古びた板張りの二階建てがある。ウッドデッキがあるところからして、元は誰かの家だったようだ。
 その隣からずらりと並ぶトタン屋根の家に比べ、ずいぶん立派な造りだった。演奏中は開いていたが、もう閉まっている。
 
 青年は裏口へ回ると、彼女の足を掬っている方の手でトン、トン、トンと三回扉をノックした。即座に応答がなく、寒さに首を縮めてそわそわする。
 早くこの子を預けて立ち去りたかった。しばらくすると向こうで砂を踏む音がし、その直後に扉が開いた。恰幅のいい、中年の禿げた店主が出てくる。
 
「おうキリ助、どうした忘れもんか……て、おい、それどうしたんだ」
 
 店主は彼が少女を抱えているのに気づくと驚いて真顔になった。
 
「酔っ払い。階段の近くで倒れてたんだ」
 
「酔っ払いったってお前……」
 
 店主は状況がつかめず慌てた様子でいる。禿げた頭や顔を撫でたりと落ち着かない。
 
「中で休ませてもいいか。放っておくわけにもいかない」
 
「あ、ああ、そうだな。それがいい。早く入れ」
 
 店主は扉を広く開けてキリ助を迎えると、閉めたばかりの店舗へ進むよう促した。
 小麦粉や野菜、缶詰などの食品が適当に積まれた什器を、少女の頭を柱にぶつけないよう注意しながら縫うように進む。
 店主は壁に横付けしたソファからディスプレイの一斗缶やクッションを取り払い、どこからか大きなタオルを引っ張り出してきた。
 
「そこに寝かせてやりな」
 
 キリ助は彼女をソファに下ろし、ホッとした。
 
「随分飲んでるな、俺から見ても顔が真っ白だ」
 
 微動だにしない少女はまるで血の通わない人形のようだった。店主は部屋の境にあるスポットを点け、水を取ってくると言って裏口側のダイニングへと戻った。
 冷蔵庫を開けたり蛇口を捻ったりする音を聞きながら、キリ助はギターを置いて肩を回した。そして彼女にかけていた自分の羽織を剥ぐと店主が持って来たタオルを代わりにかけてやった。
 
 スポットの光が差し込み、彼女の上に自分の影が落ちる。その傍らに置いた鞄をソファの脚に立て掛けかけてやった。
 見たこともない瓶のラベルを一周眺める。アルコール度数を見て「そりゃ潰れるよ」と胸の内で言う。
 そして鞄の横に置こうと屈んだ時、彼女の首元から何かが落ちた。足元に転がり落ちたそれは小さな銀の指輪だった。
 遠慮がちに拾い、その指輪の表面を見てキリ助はハッとする。
 
「マジか」
 
 リングの表面には、彼女の身分を表す数字と紋様が刻まれていた。キリ助は無意識に彼女の顔をまじまじと眺める。切れたチェーンが首から垂れたままだった。
 この子は一体何者なんだ。頭が様々な憶測を巡らせているところで店主がダイニングを出る気配がした。
 キリ助は彼女の首からチェーンを抜き取り、リングともども彼女が着ているコートのポケットへと放り込む。するとその時、彼女が身じろぎをして目を開けた。
 
「ん……?」
 
 至近距離で目が合い、キリ助はギョッとして身動きが取れなくなってしまった。彼を見たまま彼女はぼんやりとしている。
 しかし次の瞬間、急に上体を起こそうとしたのでキリ助は飛び退いた。
 瓶が倒れ、転がる。まだ酔っている彼女は結局体を起こすことができずにいたが、キリ助は倒れた瓶を直す余裕もなく彼女に背を向けた。
 
「待って」
 
 呼び止められて硬直する。その時、ちょうど水を持った店主が戻って来た。
 
「彼女の様子はど」
 
 店主の言葉を遮り、その手から水を奪うと一気に煽った。
 
「お前が飲むんかい」
 
 そして空いたグラスを押し返すとひどく動揺した様子で裏口から出て行った。
 
「何だアイツは」
 
 店主は呆れる。ソファの方を見るともう少女は寝息を立てていた。
 
「まったく……」
 
 店主はもう一度水を取りにダイニングの方へ行った。


〔立ち読み③に続く〕
※ブログでは横書きのため行間調整しています

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