第1章(立ち読み1/4)

 月は青い波に揺れていた。潮の香に紛れて泣く声は青年をいつまでも離そうとしなかった。風は優しくても彼女の不安や戸惑いを拭ってはくれない。青年が手を伸ばすと彼女は拒むように身を引いた。砂浜で重なるようにして続いた二人の足跡が、今、離れる。
 
「お時間です」
 
 彼女は涙声でそう告げる。分かっているよと青年は頷く。しかしそこから動こうとしない。心配そうに彼女を見つめ、その姿を目に焼き付けているようだった。涙を見せないよう彼女が月に背を向けると、その柔らかな髪は金色に染まった。
 
 こんな悲しい夜でさえ彼女の美しさは変わらない。青年に後悔はなかったが、離れる勇気が出ずにいた。いっそ身分を捨てて彼女を連れ去ってしまおうか。そんな考えがいつまでも頭を巡る。しかし、それはきっと彼女が許してくれないだろう。そういう人だ。
 
 沖合の船はいつの間にか消え、折れたマストだけが空に伸びている。水平線の彼方では海軍が偵察していた。あと数分もしないうちにここは海の底となる。
 
 足跡が一つ、波に消えた。時は二人を待ってはくれない。
 
「お急ぎください。私は、大丈夫ですから」
 
 彼女が強がるほど青年は胸が苦しくなった。逆光で顔の見えない彼女に手を伸ばし、そっと抱き寄せる。彼女は光る目を見開いたが、もう拒むことはなかった。青年の腕に包まれると彼女は肩を震わせ、堰を切ったように泣いた。慰めるようにその髪を撫でる青年の頬にも涙が伝っていた。
 
「寂しさは心が最も近くにある証だ。今なら分かるだろ」
 
 彼女は青年の胸に顔を埋め、声を詰まらせながら頷く。青年は彼女の頭に額を当て、願うように言った。
 
「寂しい時は共に祈ろう。私たちは祈りの向こうでまた会える」
 
 はい、と彼女のか細い声に風が絡みつく。彼女が零す涙は音もなく、満ちていく潮に消えていった。
 
 
 
 スムーズに出て行かないせいでドアベルのカラコロカランという音が鳴り止まない。冷たい外気が流れ込み、火照った体を刺すように纏わりついた。ありがとうございました、という店員の声を遠く聴きながら知恵子はわけもなくヘラヘラと笑っている。
 
 手足に力が入らず、両脇を支えてもらわなければ糸の切れた操り人形のように崩れてしまいそうだった。呂律の回らない舌で何やら言っているが、彼女を支えるグラマラスな二人もまあまあ酔っていたのでまったく通じ合うことはなく、ただハイになって三者三様に笑っている。知恵子の右側はドラム、左はホルン奏者だった。
 
 花壇の淵に下ろされ知恵子は今にも前転しそうにぐらぐら揺れる。ドラムは仲間が店から搬出する中に自分の楽器を見つけると慌てて引き取りに行った。片側だけ残ってくれたホルンにもたれながら、知恵子はぶつぶつ独り言を垂れている。
 
「じゃ、解散。今日は本当ありがとうございました!」
 
 全員店を出たところで年長の男が場を取り仕切る。帰るのも、二次会に行くのも、後はそれぞれの自由だという。
 
「知恵ちゃんはどうする?」
 
「わらしいえでねましゅ」
 
 私家で寝ます、と知恵子は答えた。もう眠くて眠くてたまらない。えー、と近くにいたいたピアノが駄々をこねるが、「お母さんが待っているので」というようなことを知恵子が言うと、それじゃ仕方ないと引き下がった。
 
 家まで送ろうかぁとホルンに言われたが知恵子は大丈夫でぇすと断った。少し休んでからタクシー呼んで帰ります、と言う。本当に大丈夫かな、とみんな顔を見合わせたが、その時は知恵子のぐらぐらが収まっていたので、いいかとなった。
 
「じゃあ私たち行くね。知恵ちゃん今日は本当に楽しかったよ、ありがとう。またいつか、どこかでセッションしたいね」
 
 はいぃぜひい、と知恵子は頭を下げる。
 
「あれ知恵ちゃん行かないの?」
 
 遠くでヴォーカルが残念そうに言う。行かないって、とドラムが言うと、
 
「そっか、じゃあね知恵ちゃん、バイバイ!」
 
 と手を振ってくれた。またあ、と知恵子は笑顔で体を大きく傾けた。そうしてグダグダと別れの挨拶が続き、メンバーの姿が見えなくなったところでようやく区切りがついた。その後しばらくは楽器を運ぶキャリーの音が続いていたが、それもなくなると辺りは急に静かになった。
 
 気に入ったならあげるよ、とウッドベースから譲り受けた酒瓶を抱え、知恵子は花壇に腰掛けながら揺れていた。別にこれといって何をしたわけでもないが、とても楽しかった。ひとりでに笑いがこみ上げてくる。
 
 しかし不意に口寂しくなり、抱えていた酒瓶を開けてぐいっと煽る。喉の奥が燃えるように熱くなり、思わずカァーっと声を出した。白い息が舞い、消える。瓶の蓋は知らぬ間に落ちていたが気づかず、何もない瓶の口をキュッキュと鳴らした。
 
 一人店先に残った知恵子を心配し、小柄な女性の店員が外に出てくる。カランコロンという音が今度は優しく響いた。大丈夫ですか、と声をかけられ、大丈夫ですもう帰りますんで、という旨を伝え、重い腰を上げる。花壇を離れると力が抜けて膝からストンと崩れた。危うく瓶を取り落としかけたがそれだけは守る。
 
 鞄は地面に転がり、背負っていたフルートケースも後頭部まで跳ね上がった。店員が支えようとすると、本当に大丈夫なんでと断り、右によろよろ、左によろよろしながら向かいの歩道へ渡った。
 
「お気を付けて」
 
 後ろで店員が言う。振り向く余裕はなく、知恵子は壁に寄りかかるようにして歩いた。視界が真っ白で何も見えない。上下左右の感覚も鈍り、自分がまっすぐ立っているのか分からなかった。とにかく触れるものを頼り、壁伝いに進んだ。
 
 打ち上げをしたレストランはライブ会場から少し離れていた。サポートで演奏する知恵子を気遣い、メンバーが彼女の家の近くを設定してくれたのだ。店のある歩道に沿って右手に進めば自宅前の港見坂へ出られるのだが、知恵子は向かいへ渡り、そのまま細い路地を直進してしまった。街灯はなくどこかの店の勝手口に裸電球が一つ、申し訳程度に光っているだけだった。
 
 頼りにしていた壁が途切れ、よろけて座り込む。酒がスカートの膝辺りにかかってもその冷たさにさえ鈍感になっていた。しかし突如、大きく水のはじける音が聞こえたかと思うと、目の前に真っ黒な世界が広がった。しばらく見ていると視界のちょうど真ん中にうっすらと水平線が浮かび、上の方はモヤモヤとした煙のような雲が立ち上った。下の方では白い波が揺れている。
 
「海だ」
 
 内陸で育った知恵子は本物の海を見たことがなかった。酔いも手伝って笑みが湧く。これが潮の香りか、と空気を吸い込むが酒の匂いも混じっていた。よたよたと海の方へ進むが、手すりに阻まれ向こう側に上半身が乗り出してしまった。不安定な体勢で下を覗き込む。
 
 真下は暗くて何も見えないが、実際は崖だった。テトラの間でぶつかり合う波が遠くにちらついて見える。引き込まれるように、知恵子はさらに前へと身を乗り出した。既に片足が浮いて今にも落ちてしまいそうなところへ、突如、背後から風が吹く。残されたもう片方の足が浮きかけた、その時。
 
「む!」
 
 知恵子の耳に、軽快な弦の音が届いた。はっとして身を起こし、間一髪のところで危険を回避する。耳を欹てると再び音が聞こえた。
 
「誰かがギター弾いてる」
 
 知恵子は音のする方へ導かれるように歩き出した。陸続きのその先にぼんやりと灯りが見える。しかしそれは、とても儚い光だった。音は風が止むと聞こえなくなってしまうが、近づいているのは間違いない。はやる気持ちを抑えようと酒の存在を思い出し一気に煽る。もう喉を潤すほど残ってはいなかった。
 
 
〔立ち読み②に続く〕
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